第二回

「けい友館とキャンプ」

 今年も暑い季節がやってきました。
けい友館の夏の行事というと、「夏期講習」と「キャンプ」があげられます。
けい友館は「塾」ですから、
大いに学力を伸ばすことのできる機会として「夏期講習」があるのは当たり前といってよいでしょう。
ですが「キャンプ」はどうでしょうか。
けい友館の「キャンプ」は、いわゆる「勉強合宿」ではありません。
(やってくれという希望はあるんですけどね・・・。)
先生や生徒が一緒に遊びに行くという要素が強いものです。
では、なぜ「塾」であるけい友館が「キャンプ」を行うのか、そのあたりを考えてみたいと思います。

 けい友館の行事での名物の一つに「パンフレット」があります。
スポーツ大会などでは、参加することと同時にこの「パンフレット」の入手を目的とする生徒もいるくらいです。
当然、「キャンプ」の「パンフレット」もありますが、その1998年度版の序文の一部を紹介してみましょう。

けい友館のキャンプは、学校行事とは違います。そこでは自分の行動が自分以外の人の助けになり、自分以外の人の行動が自分の助けになります。つまり「お互いがお互いに責任ある存在であると同時に、必要な存在である。」ということなのです。 例えば、先生たちは豊富な経験に基づいた行動を通し、色々なこと(もしかしたら人間性そのもの)をみなさんに教えてくれるでしょう。そして、一人一人が過ごしてきた人生の違いは、みなさんのそれぞれの行動を通して、色々なことをほかの人に教えるでしょう。つまり、けい友館のキャンプでは、参加する全員が先生であり、生徒なのです。
 キャンプで起こる色々な出来事を通して「発見」すること。それは、普段とは違った新たな人間関係であったり、いつもと違う場所での新たな自分であったり、普段の生活では味わえないような自然であったりするでしょう。それらは、きっとみなさんの大切な思い出になってくれると信じます。そして、それらがみなさんの人生のうるおいになってくれることを願ってやみません。「1998年度版序文より」

 
 確かに今の時代は、自分から行動を起こさなくても、ただ何となく日々を過ごしていても、
勝手に情報が入ってきて、色々な経験をした気になることができます。
でも、そういう「経験」や「発見」は、「心」にどこまで届くのでしょうか。
それらは「心」に届く「刺激」になりえるのでしょうか。

 たとえば「心」に届かない痛みで「本当の痛さ」を知ることはできないでしょう。
「心」に届かない喜びで「本当の喜び」を知ることはできないでしょう。

 他人の痛みがわからない人間が、特に若者の間に増えているといいます。
今まではたとえば「クリスマスキャロルのスクルージ老人」などのように、
何かを見失うほどの経験を積んできた、若者を通り過ぎた年代が「他人の痛みのわからない人間」の象徴だったように思います。
今の子どもたちを取り巻く環境は、残念ながら「心」に届く「経験」を積むにはさびしすぎるのではないでしょうか。

 「キャンプ」は「心」に届く「経験」を積むことができる大きな機会です。
でも、なぜ「キャンプ」という、本来、不自由な生活を味わうようなことがその大きな機会といえるのか。

 「キャンプ」での「不自由」とは、「できる自由が無い」ということではありません。
「キャンプ」での「不自由」とは、「便利さが無い」ということから来るものです。
便利さが無いということは、自分を自由自在に動かさないと、うまく生活していくことができません。
そのときには、体だけでなく、心も動かすことが必要となります。
ふだんと同じ生活をしていては、体も心も、いつもと同じ動き方しかできなくなってしまいます。
それを防ぐためには、自分をいつもと違った環境に置く必要があるでしょう。
キャンプに来た人は、体と心が自由に動けるようになる。
そういうキャンプにしたいと、けい友館の先生たちは願っているのです。

 今年も大勢の参加を期待しています。

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