第二十回

「学力と教える力」


 私が中学生の頃、英語の教科を教える担任の先生と、クラスの全員で日帰り旅行をしたことがありました。その時、外国から日本へ観光に来たという方と出会い、「先生、英語の先生なんだから何か会話してよ」とクラス全員からの要望で会話をしてもらいました。私はさぞや流暢な英語で会話をしてくれるものと思いましたが、思っていたほどスムーズな会話でなく、子ども心に「英語の先生なのにこんなもん?」と、当時は大変失礼なことを考えてしまいました。

今にして思えば「英語の先生=英会話ができる」とは限らないのですが、子どもにとって先生とは絶対的な存在であり、その教科に関しては専門・天才的なことを期待してしまうものなのです。

同様な期待は「大学の偏差値ランク」にも根強くあるようで、家庭教師の生徒募集掲示などを見ると、いまだに「当方○○大学△年生、家庭教師します」という、わざわざ大学の名前を載せて依頼を受けようとするものを目にします。

「おい、おい、大学の名前なんて関係無いだろ!!!」と思うのですが、「○○大学の学生さんならきっと頭が良くて教えることも上手なはず!」と評価してしまう世間の風潮が、事実、存在します。実際、けい友館でも「こちらの塾の先生はみなさんどの大学出身ですの?」などと聞かれたことがあります。(そういうときは「まぁ、並程度です。」と答えることにしています。)

確かに偏差値の低い大学へしか合格しなかった人間が、それ以上のレベルの学校に生徒を合格させられないのではないか?という不安があるのも分かります。しかし、それならば、世の中の学校や塾の先生は全て難易度の高い高校・大学を卒業していなければならないのではないでしょうか。
スポーツで例えるなら、選手を教えるコーチは全員、教えている現役選手よりも能力が高くなくてはならないことになります。マラソンランナーの高橋尚子さんよりも小出監督の方が速く走れなくてならないことになります。
反面、世の中には、選手時代は大した結果を残していなくとも、コーチになってから素晴らしい指導力を発揮する方がたくさんいます。「名選手、必ずしも名コーチ・名監督ならず。」といわれるように、「教える人の学力」と「教える力」は、同じように見えてまったく違う能力です。

もちろん、ある程度以上の学力は必要です。しかし、もっと重要なことは「何がわからないのかを的確に見つけること」であり、「効率よく、分かりやすく教えること」です。(塾の先生の資質については、以前のこぼれ話<第十七回:カリスマ>でも詳しく述べましたので、そちらも参照してください。)
どの学校や塾の先生も、プロとして取り組む以上、日々精進し、技術も向上していきます。言いかえれば、現在会社で働いているお父さん方の仕事の能力も、ほとんどと言っていいほど、社会人になってから身につけて進歩させていったものであるはずです。
ですから、出身大学のランクと今の能力をイコールで考えるのは、「社会人になってからの上積み」をまったく計算に入れていない考え方といってよいでしょう。「学生時代からまったく進歩が無い」と考えられてしまうのは、本当に心外なことです。

ですから、家庭教師の現役大学生の「学力」は出身校に関係があるかもしれませんが、高校や大学(あるいは塾や予備校)で「教え方」を学んで身に付けたかどうかの目安になるかどうかは、疑問符をつけざるをえないというのが正直な感想です。

話をもどしますが、家庭教師の生徒募集掲示に載っている学生教師からのコメントで、「私の勉強法を教えます」というものをよく見かけるのですが、これにも驚かされます。

「私はこのように勉強して大学へ合格しました」ということを訴えたいのでしょうが、はっきり言って、そんなの大きなお世話です。
勉強法なんて千差万別、一人一人性格や環境によって違うものであり、いくら成功した事例だからといって、自分に合うかどうかもわからないものを押し付けられたのではたまりません。あくまでも参考事例の一つに過ぎません。

その辺が、たくさんの引出しを持っていて、生徒に合わせた勉強法を用意して教えることができるプロの教師と、一つの成功事例に慢心し、固執してしまう学生家庭教師との差なのかなと思ってしまいます。

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